そもそも教えることって

自分の利益とか対価とか求めたら負けな気がする。次世代の育成って、本質的には人類の発展には欠かせない要因なわけで、人類の歴史上必須なものなのだ。で、先に生きた者としては、自分の教訓とかそういうものを体験談的に軽く受け止めてもらって、それを後世を生きる子孫たちが踏まえたうえでなんかやって、あぁ面白いなぁとか元気だなぁとか思っていればそれはそれで楽しいわけで。さらに後輩がうまくいった上で「ありがとうございました」ってのが理想というかそれがWin-Winな関係なわけで。そうなってこそ初めて感謝というか謝礼というか、対価が生まれてくるんじゃないかなぁ。

そう考えてみると、よく言われますけど先行投資ですよね、教育って。自分に対しての教育もそうだし、他人に関してならなおさらそう。

大学生活も後半に突入して、僕も教える機会が多くなってきました。一応ですが教える身となった僕にもそれなりの心構えがあります。小手先のテクニックとかなんかはグーグル先生に聞けばすぐにでもわかるので、自分の経験を通じて感じたこととか体験したことを教えてあげようと思うんですよね。先輩とかそういう肩書きとか関係なしで、少しばかり人として先に生を受けた者として。僕の地道な言論が転ばぬ先の杖として役立てばいいなぁという程度にですけれども。押しつける気は全くないですので、参考程度に聞いてもらえればいいかなぁというスタンスです。

結局何が言いたいのかというと、教育とは人類普遍の原理であって、先に生を受けた者として当然の行為である。ただ、これは僕が教育を享受するのが当然ということではないです。受ける側の考え方ではなくて、する側の考え方です。職業先生じゃなくても、本気で後輩とかを育てよう、教えようと考えて実行した人が、新の先生と言われてしかるべき人だと思います。そこには一般的な損得勘定がないように思う。

教えることに関してもそうですが、上記のような損得勘定がほどんとないような奉仕精神旺盛な人たちは、もっと評価されるべきであると思う。

当り前の行為であるからこそ、当たり前に実行する人がすごい。

僕はどちらかというとそういう大人になりたい。


追記。

今の時代、グーグル先生とかに聞けば小手先のテクニックとか知識とかはいくらでも手に入るんだから、そういうのを教えるような教育は虚構みたいなもんで、知識とかテクニックとかを活用して実際になんかをやるときのノウハウとか失敗談とかを教えるのが教育の美しい形なんじゃないですかねぇ。そういうのが簡単にできる場を作りたいなー、って発想がインターネット大学作りたいというところになったりするんですよねぇ。

理想論者なんですかね。そんな儲からないこと誰もやらないんですかね。